2021年
監督:ケイト・ショートランド
出演:スカーレット・ヨハンソン、フローレンス・ピュー、デヴィッド・ハーバー、レイチェル・ワイズ、オルガ・キュリレンコ、レイ・ウィンストン
公式サイト:https://marvel.disney.co.jp/movie/blackwidow.html
MCU再始動の嚆矢!勢い、いまだ衰えず
長かった……本当に長かった。予告編を除けば、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(19年)の日本公開以来、約2年ぶりに劇場で目撃するマーベル・スタジオのオープニングロゴ&ファンファーレ。「たった2年」と言い換えることもできようが、それまで年に1~2本、多い年で4本もリリースされていたシリーズの供給が突然ストップしたことからくる飢餓感は自覚していた以上に強かったらしく、冒頭数シーンどころか数カットを観ただけで、思わず胸が熱くなる。コロナ禍で封切りが何度も延期され、ファンをやきもきさせ続けたマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)第24作目『ブラック・ウィドウ』は、MCU再始動の嚆矢と呼ぶに相応しい、食べごたえ満点の快作だ。
ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフは、『アイアンマン2』(10年)での初登場以来、ここぞという重大局面において目覚ましい活躍を見せてきた“アベンジャーズ”のキーパーソンのひとり。特に『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(18年)でチームが苦杯を喫した後、「それでもやらねば!」と逆転のチャンスを窺い続けた彼女の献身がなければ、『アベンジャーズ/エンドゲーム』(19年)における感涙モノの大団円も、所詮はドクター・ストレンジのシミュレーション止まりだったかもしれない。それほどの重要人物であり、アイアンマンにキャプテン・アメリカ、ソーやハルクといった特濃個性派にも力負けしないほどの存在感を有しているというのに、これまでナターシャのバックストーリーに関しては断片的な情報がチラ見せされるのみで、初対面から10年経っても相変わらず「謎多き女」のままだった。フェーズ1~3の壮大なインフィニティ・サーガがひとまず綺麗に着地したことで、ようやくブラック・ウィドウの単独主役企画が実現。過去作で周到に張られていた伏線(プラス、各作品の脚本家が何の気なしに蒔き捨てたであろうアイデアの種)を落穂拾い的に回収しつつ、この謎めいたキャラクターの過去を掘り下げていく。
もはや戦いの場が宇宙規模にまで拡大することも珍しくなくなったMCUのモノサシで見るならば、本作の「偽装家族VSスパイ養成機関」という図式は土俵サイズがだいぶ小さい。めっぽう強いが肉体的には常人なナターシャ、目に見える要素(バトルスケール、超人技のレパートリー、斬新かつカッコいいプロダクション・デザイン等々)だけで今までの作品と張り合うのは、ちょっと厳しいものがある。いや、本作のアクションだって質・量共に十分素晴らしいのだが、それ以上に作品強度を高めているのが、ナターシャとその周辺キャラクターに纏わる因縁、愛憎、痛悔の念といった、人ならではの感情が絡む事象の数々である。ビール片手に“妹”エレーナと言葉を交わす場面、久方振りの再会を果たした“一家”が卓を囲んで喧々囂々となるシーン、「空っぽのプレゼントボックス」の思い出を静かに語るナターシャ……派手な見せ場の合間に挿入された、いわば“箸休め”のシークエンスが、この映画では不思議なほどに眩しく見える。フィンガースナップ一発で全生命の半分を消滅させた規格外のジェノサイドと、そこからの再起という極めて大きな事件を目の当たりにしてきたはずの観客からしてみれば、今さら何を、と捉えられかねないほどの「小さな世界」での出来事であるにもかかわらず、だ。宇宙には宇宙スケールの、台所には台所スケールのドラマがあり、そのどちらも、観る者の心を打つ可能性を秘めている。
舞台規模に見合うストーリーとキャラクターを用意したうえで、それを極上のエンタメ作品に料理してみせるマーベルの技芸のキレは、今回も健在である(深イイ話の途中にオチャラケをブッ込んで引き攣った笑いを催させる、あの独特のノリも同様)。
毎度「そこに声を掛けたか!」と嬉しい驚きがあるキャスティング方面も、相変わらず手抜かりなし。目下スター街道驀進中のフローレンス・ピューが、荒々しくも繊細な暗殺者エレーナ・ヴェロワを好演。『ヘルボーイ』(19年)のデヴィッド・ハーバーは「赤きキャプテン・アメリカ」ことレッド・ガーディアンに扮し、日々のワークアウトを怠ってきた超人兵士の哀愁をこれでもかと見せつける。レイ・ウィンストン演じるスパイ養成機関〈レッドルーム〉の元締ドレイコフは、スーパーパワーを持たぬハンデをMCU屈指のド外道人格で補填。相手の技を見稽古で瞬時にコピーして反撃に用いるという、まるで西尾維新の小説『刀語』に登場する鑢七実みたいなヴィラン、タスクマスターが「開けてビックリ玉手箱」的役割を担う。出番はそれほど多くないものの、幼き日のナターシャを演じたエヴァー・アンダーソン(あのミラ・ジョヴォヴィッチとポール・W・S・アンダーソン監督の娘さん)も、なかなかいい味を出していた。
当然のことながら、タイトルロールであるブラック・ウィドウ=ナターシャ・ロマノフとして座長をつとめ上げたスカーレット・ヨハンソンは、本作でも安定のカッコ良さ。MCUに加入した時点で演技の才能は折り紙付き、賞レースでその名を目にすることも少なくなかったヨハンソンだが、当たり役と共に歩んできた10年の間に更なる進化を遂げ、今では押しも押されもせぬ大女優オーラがダダ洩れだ(今回はエグゼクティヴ・プロデューサーも兼任)。『アイアンマン2』の頃はまだ若干のお仕着せ感があったアクションスタイルも、ここでは完全にキャラクターとの調和がとれており、過去イチと言っていいほどの輝きを放つ。そして物語の終盤、見覚えのある髪型と服で身を固めたナターシャが、とある人物との短いやり取りののち、希望に満ちた表情で去っていく場面には、先の展開を知っているからこその喪失感と充足感が併存している。これほど謎が多く、見方によっては「とっつきにくい」とさえ思えるキャラクターが人気を集め、単独で主役を張るまでに成長できた要因として、やはりヨハンソンの存在というものはかなり大きい。ホント、素敵な女優さんを連れてきたものである(もしもナターシャ役の第1候補だったエミリー・ブラントがオファーを受けていたら……ソレはソレで観てみたかった気もするが)。
今年5月、マーベル・スタジオから“Marvel Studios Celebrates The Movies”と題した映像がリリースされ、そこでは『ブラック・ウィドウ』の後に10本の制作・公開予定作品があることが明らかになった。本作もMCUにとっては数ある通過点のひとつであり、サブスクリプション形式の動画配信サービスとのクロスオーバーで、作品内世界は今後ますます複雑に入り組んだものへと成長していきそうな気配だ。今回もポストクレジット・シーンで一旦の区切りをつけた後、これからの展開に活かすための波乱の苗をキッチリと植えていく。この楽しいお祭りも、いつかは本当に終わりを迎える瞬間が来るのだろうか?それとも……とまれ、マーベルの勢いはまだまだ衰えそうにない。