2019年
監督:エイドリアン・グランバーグ
出演:シルヴェスター・スタローン、パス・ヴェガ、イヴェット・モンレアル、セルヒオ・ペリス=メンチェータ、オスカル・ハエナダ、アドリアナ・バラーサ
公式サイト:https://gaga.ne.jp/rambo/
〈本作は、劇場公開時に映倫よりR15+の指定を受けました〉
「一人だけの軍隊」人生苦役列車編
(※本稿にはネタバレが含まれております)
「むかし取った杵柄」というやつを、事あるごとに、これ見よがしにひけらかす人は意外と多い。自慢するだけあってナルホド凄い腕前だ、と感心してしまうものから、大言壮語もいい加減にしろと鼻で笑いたくなるものまで、内容はさまざま。一方、熟練した技術を滅多なことでは表に出さず、むしろ積極的に「その他大勢」に紛れて静かに過ごしたいと願う人もいる。こちらも事由は千差万別だが、ランボーが自らの才能をなかなか披露したがらないワケは明白だ。彼のスキルは惨烈極まりない地獄の戦場を生き延びるために培われたものであり、その封印を解くことはつまり、ギリギリのところで平穏を保っている己が周辺を、情け無用の暴力空間に変えてしまうことと同義だからである。
ジョン・ランボー。米国陸軍特殊部隊グリーンベレーの一員としてベトナム戦争に従軍し、数々の武勲に輝いた精鋭中の精鋭だったが、戦地での過酷な体験と、帰国後に同胞から受けた理不尽な仕打ちがもとでPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えてしまう。放浪中に立ち寄ったオレゴン州の田舎町で、保安官からリンチに等しい取調べを受けたことが引き金となり、それまで溜め込んでいた怒りがとうとう爆発。戦闘マシンと化したランボーには警察も州兵も歯が立たず、ベトナム時代の上官の説得によって、「一人だけの軍隊」はようやく投降した(『ランボー』〈82年〉)。
その後、恩赦と引き換えに捕虜奪還の極秘ミッションを任されたり(『ランボー/怒りの脱出』〈85年〉)、かつての上官の救出ついでにソ連軍と一戦交えたりと(『ランボー3/怒りのアフガン』〈88年〉)、事あるごとに戦野へと引き戻されてきたランボー。前作『ランボー/最後の戦場』(08年)では、暴虐の限りを尽くすミャンマー政府軍をひと山いくらの肉骨粉に変えた後、憑き物が落ちたような穏やかな表情で故郷・アリゾナの実家に帰っていく彼の姿が映し出された。これでシリーズ観納め、歴戦の勇士ランボーもついに古巣で安息を得るのか……多くの観客がそんな感慨に浸っていたであろうテン年代、その黄昏時にパート5撮影開始のニュースが聞こえてきたのだから、正直言って耳を疑った。とうに古希を過ぎ、牧場で静かな余生を送っているはずの男の身に、何が起きたというのか?
『ラスト・ブラッド』序盤で描かれるランボーの暮らしぶりは、概ねシリーズファンが予想していた通りか、それ以上に幸せそうなものだ。亡き父から受け継いだ牧場で、思い出の品々に囲まれて馬の調教に精を出す日々。トラッカー(追跡者)としての腕を買われ、時には遭難捜索の手伝いをすることもあるが、ベトナムの泥沼を這いずり回った経験と比べたら軽い山歩きみたいなものだろう。加えて、今の彼には、旧友のマリアとその孫娘ガブリエラという“家族”までいる。人の温もりが寡言なデモリションマンの心に好影響を及ぼしたのか、口数も笑顔も以前よりずっと増えた。トレードマークの長髪を切り、バンダナも巻かない本作のスタローンは、外見上はランボーというよりもむしろ、フィラデルフィアで小さなレストランを営む老人ロッキー・バルボアに近い。
しかし、キャメラが陽光降り注ぐ地上から薄暗い地下に潜った途端、観客はそこにランボーの癒しがたいトラウマを見て唖然とする。彼が10年近くかけて構築した要塞は、肉体派アクション・ヒーローの代名詞にまでなった男が隠し持つ「闇の深さ」を如実に表すものだ。夜中、ひとり地下トンネルへと入り、何かをグッと堪えるような面持ちでドアーズの“Five to One”を聴くランボー。その姿からは、心的外傷を克服した者が獲得しているはずの精神的余裕は全くと言っていいほど感じられない。ランボーにもその辺の自覚はあり、台詞でキッパリと言い切っている。「俺は昔と少しも変わっちゃいない。過去にフタをして、そこに目を向けぬよう日々努力しているだけだ」と。では、もしもフタが何かのはずみで開いてしまった場合、一体どんなことが起きるのか?その問いに対するランボーからの返答こそ、本作クライマックスで展開する一大残酷処刑ショーだ。
“ワイヤー・グレネード”、“カートリッジ・トラップ”、“パンジ・ピット”に“マレーの門”……ランボーが地下壕にどっさり仕掛けた罠は、呼び名こそスーパーヒーローの必殺技みたいでカッコいいものの、人体に与えるダメージはシャレにならないほど凄まじい。しかも、これら超暴力の数々が、ランボーから賊に向けてほとんど一方的に行使されるため、ヒーローが悪者に正義の鉄槌を下すサマというよりも、『ファンハウス/惨劇の館』(81年)や『血のバレンタイン』(81年)といった迷宮スラッシャー・ホラーを観ているような気分になってくる。これこそがランボーの「むかし取った杵柄」であり、一度発動したら最後、ケンカを売る相手を間違えたターゲットは、恐れおののきつつエグい死を待つしかない。強烈な肉体損壊描写は『最後の戦場』にもタップリと盛り込まれていたものだが、本作におけるランボーの庇護対象はラストバトル前の段階で既に失われてしまっているので、弱者相手に鬼畜の所業を繰り返してきた連中が成敗されても、後味は大層苦い。結句、大切なものを守れず、家も失い、おそらくは今後、大量殺人事件の被疑者として当局から追われることになるであろう老ランボー……まったく、なんという人生苦役列車ぶりであろうか。
多くの批評家から酷評され、『ランボー』原作者のデイヴィッド・マレルにも“失敗作”と切り捨てられた『ラスト・ブラッド』。確かにイビツな作品であることは否めないが、『キック・オーバー』(12年)のエイドリアン・グランバーグ監督による演出はなかなか堂に入ったものだし、シリーズ参加2度目となるブライアン・タイラーの劇伴も、映像との親和性が『最後の戦場』公開当時に比べて格段に高くなっている(今や、故ジェリー・ゴールドスミスの名曲に比肩する「もうひとつのランボー主題曲」と言っても過言ではなかろう)。シリーズの名場面が流れていくエンドクレジットでは、思わず涙腺が……しかし、本当にこれでいいのだろうか?70を過ぎてやっと人並みの幸せを掴みかけていた老人から、全てを奪ったうえ荒野に放逐するとは、あまりに救いが無さすぎる。本稿執筆時点で、スタローンが『6』の制作に着手したという話は聞かないが、数年あるいは十数年後、再びランボーのカムバックが実現した暁には、筆者は迷わず劇場に駆けつけることだろう。たとえ本編の大半が、どこぞの掘っ建て小屋で黙々とナイフの鍛造を続ける、後期高齢者ランボーの横顔だったとしても。