2019年
監督:ヨハン・レンク
出演:ジャレッド・ハリス、ステラン・スカルスガルド、エミリー・ワトソン、ポール・リッター、ジェシー・バックリー、コン・オニール、バリー・コーガン
公式サイト(スターチャンネル):https://www.star-ch.jp/drama/chernobyl/
「今なおそこにある危機」を描いた重厚な社会派ドラマ
1986年4月26日未明、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が発生。ソ連原子力研究の権威であるヴァレリー・レガソフ博士は、閣僚会議副議長シチェルビナからの要請を受けて現地に急行する。当初の想定をはるかに超えた事故規模と、それが引き起こす放射能汚染の深刻さに戦慄するレガソフ。現場で最悪の事態を阻止するための決死の作業が続く中、情報機関からの圧力を受けながら調査を進めるレガソフたちは、少しずつ事故の核心に迫っていくのだが……。
史上最悪レベルといわれる原子力事故を題材に、アメリカのHBO、イギリスSky UKが共同制作した全5話のミニシリーズ。第71回プライムタイム・エミー賞(リミテッド・シリーズ部門)、第77回ゴールデングローブ賞(ミニシリーズ・TV映画部門)において数々の賞に輝き、テレビ放送時にも高評価を得た重厚な社会派サスペンスドラマだ。
“チェルノブイリ”(今では“チョルノービリ”と表記するべきか)の名を耳にすれば、筆者と同世代の人々の大半は、例のゴツゴツとしたコンクリート製建造物、所謂“石棺”に覆われた4号炉の姿を思い浮かべるのではないだろうか。見た目といい俗称といい、この上なく不気味な存在感を持ったその人工物は、何か大きな事故が起こる度に比較対象物として再注目され、ダークツーリズムの定番スポットとして世の関心を引き続けてきた。それだけに映像媒体で取り上げられる機会も多く、この核災害から材を取ったテレビ番組やドキュメンタリー映画、劇映画は枚挙にいとまがない。そんな中でも特に高い完成度を誇る本作は、一級品の災害パニック、政治ドラマであるのと同時に、事故の概要を知るうえでの格好のテキストでもある。
大局を解説するための“引き画”から、事故対応にあたった個々人を描く“寄り画”まで、物語はフォーカスポイントを大きく変動させつつ進んでいく。計5時間半にも及ぶ長尺は、劇場用映画ではオミットせざるを得ない小さなエピソードも余さず盛り込むことを可能にし、それでいて何シーズンにもわたる人気TVシリーズが陥りがちな冗漫さとも無縁。そもそも、ベースになっている出来事自体が極めてショッキングかつサスペンスフルなので、余計な脚色でドラマを水増しする必要がない。一見すると静的な場面であっても、放射線という目に見えぬ“死の矢”がもたらす不安や恐怖は消えることがなく、まるで息つく暇も与えないジェットコースター・ムービーを観ているような心持ちにさえなってくる。
もとは原子炉が抱えていた設計上の欠陥に加え、認識不足や無理押し、隠ぺい体質によって引き起こされた人災だが、その絶体絶命の難局を打開するべく投入されたのも、やはり人間の知恵と底力。事故発生直後に消火活動にあたった消防士とその家族の悲劇、猛毒にも等しい瓦礫を撤去するため、わずか数十秒~数分の作業時間に命を懸ける決死隊員、屁の突っ張りにもならない防護服とマスクをかなぐり捨て、真っ裸でトンネル掘りに励む炭坑夫たち……「自分がやらねば誰がやる?」という局面で展開される捨て身のドラマが、ことごとく胸に刺さってくる。下手に盛り上げ過ぎれば鼻白んでしまうところ、これまでに多数のMVを手掛け、『ブレイキング・バッド』(08~13年)等のエピソード監督として腕を磨いてきたヨハン・レンクの演出は程よく抑制が効いており、見事だ。
見事といえば、実力派揃いのキャスト陣に関しても言及せずにはいられない。社会主義国家の威信保持と人としての良心の板挟みに懊悩する、レガソフ役のジャレッド・ハリス。当初はレガソフと反目し合うも、やがて真の“タヴァーリシチ(同志)”として共闘の道を進むことになるシチェルビナ副議長に扮したステラン・スカルスガルド。KGBから執拗にマークされながら、証言・証拠収集のため奔走する、ウラナ・ホミュック博士役のエミリー・ワトソン。怒涛のパワハラ攻勢からの開き直りで、視聴者の憎しみを一手に引き受ける原発副技師長ディアトロフ役、ポール・リッター(昨年、脳腫瘍により死去)。いずれも見目麗しきタイプの役者さんではないが、それぞれのキャラクターに確固とした個性と実在感を付与している(粗野な炭坑夫たちの棟梁、グルホフを演じたアレックス・ファーンズなど、少ない出番の中でのキャラ立ち具合が凄まじい)。
本作のクライマックスというだけでなく、ジャレッド・ハリスのフィルモグラフィーの中でも特に印象深い場面となった法廷証言シークエンスを経て(ついでに書いておくと、ここでレガソフが赤青のパネルを使って解説する「原子力発電のしくみ」は、ワイドショーでよく目にするゴチャ書きフリップ+めくり芸による説明よりもずっと簡潔で分かり易い)、記録映像と字幕を用いた長いエピローグで物語は締め括られる。何かを勝ち取ったような達成感は希薄で、「とりあえず猶予を得た」という急場しのぎ的な安堵感のほうが強い。それもそのはず、本作で描かれた“害悪”は、打倒するのが極めて困難、根絶はほぼ不可能。組織ぐるみの隠蔽工作によって多くの有用なデータが葬られ、権力者が見え透いたウソを平然と吐き重ねる体質は、ソ連崩壊後もどうやら変わらぬままである(これに関しては、あまり他国ばかりを蔑んでもいられないが……)。“石棺”は回収不能な職員の遺体諸共、新たな構造物によって覆われたが、死と隣り合わせの事故処理作業は依然継続中。どれもこれもが「今なおそこにある危機」のままだ。害悪の一掃が見果てぬ夢だとしても、大陸の広範囲が丸ごとダメになっていたかもしれない大事故の経験から何かを学び、明日の糧とすることは十分可能であるはずだし、そういった意識を高めるうえで、『チェルノブイリ』のような作品が果たす役割も大きいと思うのだが……現実に目を向けてみれば、稼働中の核施設への砲撃も辞さない狂気の陣取り合戦に胃が引き攣る。未だ、何もかもが遠い。