「外に生きた」じぃじの行く先
デイリリー栽培で富と名声を得たアール・ストーン。しかし、仕事一辺倒の生活を送るうちに家庭は崩壊し、インターネットの普及とともに事業環境にも翳りが見え始めていた。そんな折、「車を運転するだけで高額の報酬が受け取れる」という仕事の話を耳にしたアール。依頼人に言われるまま、荷物を積んだトラックを目的地へと走らせるが、積み荷の正体は大量のコカインだった。多くの人が持つ犯罪者のイメージとかけ離れた存在だったアールは、危険な密輸を何度も成功させ、腕利きの運び屋「エル・タタ(おじいさん)」として麻薬カルテル内で重宝がられるようになる。だが同じ頃、組織の内通者から「エル・タタ」に関する情報を引き出したDEA(麻薬取締局)が、この正体不明の運び屋を捕らえるための捜査に乗り出そうとしていた……。
言わずと知れた傑作『グラン・トリノ』(08年)から10年、巨匠クリント・イーストウッドが主演も兼ねて撮りあげた最新作。『インビクタス/負けざる者たち』(09年)以降はディレクターとして辣腕を振るい続け、お弟子さんの長編監督デビューを演者の立場から応援した『人生の特等席』(12年)でも健在ぶりを示していたイーストウッドだが、久方ぶりの監督・主演兼任作となれば、映画ファンの期待も感慨もひとしお。『アメリカン・スナイパー』(14年)のブラッドリー・クーパー、『ミスティック・リバー』(03年)のローレンス・フィッシュバーン、『ミリオンダラー・ベイビー』(04年)のマイケル・ペーニャといった2000年代イーストウッド組キャストや、『真夜中のサバナ』(97年)以来久々の起用となる実子アリソン・イーストウッドを向こうに回し、いぶし銀の演技を披露する。
近年では、実話ベースの作品を手掛ける機会が増えたイーストウッド。今回の映画も、2009~2011年にメキシコ麻薬カルテルの運び屋として大量の麻薬輸送に関わったレオ・シャープの実人生がモデルとなっている。だが、本作の主人公アールは、ユーモアを解しイロを好み、誰とでも瞬く間に打ち解け合ってしまうほどの圧倒的人たらし。イーストウッドの十八番、すなわちギュッと固く結んだ口で唸るように話し、「寄らばハリ倒す」なオーラを振りまく偏屈爺さん演技とはだいぶ毛色が違う。確かに、口が悪く頑固な「いつもの」イーストウッドでは運び屋としての資質に欠けるハズで、モデルであるレオ・シャープの性格も反映された結果の人物造形なのだろうが、強面老人イーストウッドの好々爺芝居というのも、なかなか新鮮で楽しい。カルテル構成員にスマホの操作方法を教えてもらい、しつこい職質ポリスはトンチで撃退。荷台にはヤバいブツを満載しているというのに、腹が減れば平気で寄り道してサンドを買い食い、ときには砂漠で立ち往生した車のタイヤ交換まで手伝う。本作におけるイーストウッドは、「頑固ジジイ」や「偏屈老人」ではなく「じぃじ」と呼ぶに相応しい愛されキャラであり、そんな人物像に影響されてか、映画の雰囲気も(犯罪実話が基であるにもかかわらず)かなりホンワカしている。カーステでカントリーミュージックを聴きながらハンドルを握るじぃじの姿からは、運び屋稼業のスリルに愉悦する心の余裕すら感じられ、悲愴なムードはほとんど無い。スリリングな仕事が回春の秘薬となり、ついにはセクシー美女とのプールパーティー&ベッドインまでキメてみせるイーストウッド(撮影当時87~88歳)。ひょっとすると観客の中には「こんな老後……ある意味素敵かも」なんて思ってしまう人もいるのではなかろうか。
しかし、いくら裏稼業で金回りが良くなっても、仕事人間だったアールの家族関係は既にガタガタだ。ワーカホリックが祟って妻とは離婚、娘からは「顔も見たくない」と拒絶され、可愛い孫に会う機会も滅多に無い。多くの批評家が指摘している通り、ここにはショービジネスに打ち込む一方で家庭をないがしろにしてきたイーストウッド自身の姿が投影されているわけで、劇中でアールがダメ夫・落第親父呼ばわりされる場面には、リアリティ番組の家族喧嘩を見ているような居心地の悪さを覚える(そういえば、イーストウッド一家の私生活に密着した“Mrs.Eastwood & Company”なんてリアリティ番組が実際に作られたこともあった)。長い人生の黄昏時にハタと立ち止まり、欠けていたピースを探し求めても、全ては後の祭り。愛する者に「あなたはいつだって外に生きる人だった」と言われた老人は、ただ力なく項垂れるしかない。
そして当然のことながら、どんな事情で運び屋になったとしても麻薬密輸は犯罪であり、罪を犯した者にはそれ相応の罰が待っている。カルテルの内部抗争で立場が危うくなり、闇組織からもDEAからも追われる身となったアールは、惰性で車を走らせるだけの孤独な老人だ。主人公への過度の肩入れや派手なクライマックス演出をよしとしないイーストウッドは、ここでも一定の距離を保ちながら「外に生きた男」のラスト・ランを描写する。とはいえ、スクリーンに映っているのはケダモノじみた屈強な若者などではなく、心身ともに傷つき、憔悴したじぃじ……前述のホンワカしたムードを覚えているだけに、このシークエンスは胸に迫るものがある。
「過度の肩入れをしない」と書いたが、それは「断罪したのち打遣らかす」ことと同義ではない。咎人アールの物語の締め括りには、私生活でもイーストウッドと親交があるカントリー歌手、トビー・キースの“Don’t Let the Old Man In”が流される。アールの痛悔の言葉とも、新しい決意ともとれる歌詞が作品を包み込み、『グラン・トリノ』の鋭い衝撃とはまたひと味違った余韻を残す。それは同時に、老いてなお猛烈な創作意欲を燃やし続けるイーストウッド自身の意思表明でもあるのだろう。スーパーじぃじ、クリント・イーストウッド……彼が「老い」を迎え入れるのは、まだまだ先のようだ。