2022年
監督:森井勇佑
出演:大沢一菜、井浦新、尾野真千子、奥村天晴、大関悠士、橘高亨牧、播田美保、黒木詔子、一木良彦
公式サイト:https://kochira-amiko.com/
調子っ外れ且つ強靭な「無垢の祈り」
あみ子は、広島で両親や兄と暮らす小学5年生。その風変わりで天真爛漫な性格ゆえ、たびたび周りの人々と衝突し、白眼視されることも少なくない。そして、ある出来事をきっかけに、あみ子と家族の関係は決定的に変化してしまう。家庭で、学校で、「自分を取り巻く世界のカタチ」に戸惑いながらも、我が道を突き進むあみ子。今日も彼女は、誕生日にもらった電池切れのトランシーバーに独り話しかける。「応答せよ応答せよ、こちらあみ子」……。
『星の子』、『むらさきのスカートの女』等で数々の文学賞に輝いた作家・今村夏子が、2010年に発表したデビュー作『あたらしい娘』(のちに『こちらあみ子』に改題。ちくま文庫刊)を映画化。『日日是好日』(18年)や『タロウのバカ』(19年)で助監督を務めてきた森井勇佑にとって、本作が初の監督作となる。
劇中、とある場面でテレビ画面に映っているのは、ジェームズ・ホエール監督の古典怪奇映画『フランケンシュタイン』(31年)。垂れ流し再生状態とはいえ、リアリティの観点からすればどうかと思うような作品チョイスだが、「誰からも理解されず、忌避される異物的な存在」の隠喩としては、これ以上ないほどしっくりくる。主人公のあみ子もまた、エキセントリックな言動で周囲の人間を怒らせ、悲しませ、数々のトラブルを誘発してしまう。かたやSFホラーの怪物、こなた現代劇の少女であるが、両者が佇む孤独の淵は、ジャンルをこえて相似を成している。
あみ子が中学に進んだ後半パートでは、この“異物感”がより顕著になる。「いかにも中学生」といったエキストラたちの中にあって、あまり目立った身体的変化が見てとれないあみ子の姿には、どこか調子っ外れというか、一人だけ小学5年生で時が止まってしまったかのような収まりの悪さがある(揃いの制服を着ていることで、その感覚は薄まるどころかますます鮮明になる)。しかし、それによってあみ子が虚弱に見えたり、殊更可哀想に思えてきたりすることはない。むしろその逆で、ぼんやりザワザワと密めく世界なんぞ、単騎で食らい尽くせるのではないかと感じるほどに、この主人公は強靭である。原作者・今村夏子の創造した“あみ子”というキャラクターが元々持っていたポテンシャル、それを技巧というより「野性の勘」に近い力でもって引き出した立役者こそ、オーディションで森井監督に見出された新星・大沢一菜であろう。
演技未経験ながら主役に抜擢されたという大沢一菜のお芝居は、芸能事務所で訓練を積んだ子役のものとはだいぶ毛色が異なる。所謂「計算し尽くされた巧妙な演技」でないぶん、動きや台詞回しが常に意外性を帯びており、それがなんだか妙に心地良いのだ。同じことは、あみ子から熱烈な好意を寄せられる“のり君”役の大関悠士や、“坊主頭”橘高亨牧が見せる芝居にも言える(劇中で何度か行われる、あみ子と坊主頭の掛け合いは傑作。あの独特のテンポから生じる可笑しみは、狙い撃ち的な演出だけでは絶対に出てくるまい)。井浦新や尾野真千子といったベテラン勢も、子どもたちの予測困難なお芝居に乗っかっての腕自慢を、いつになく楽しんでいるようだ。題材といい語り口といい、決して爽快なものではないが、映画を観たことによる満足感はきちんと残してくれる作品である。少なくとも鑑賞後しばらくは、懐かしの童謡『オバケなんてないさ』のメロディが頭にこびりついて離れなくなること請け合いだ。
そういえば筆者が小学校に通っていた頃にも、授業や行事の最中に奇矯なふるまいをして周囲をギョッとさせる子が何人かいた。教師による鉄拳制裁が普通に行われていた当時、何度ゲンコツを食らっても懲りることなく大暴れし続ける姿に呆れたものだが、いま思えばあの子たちもまた、あみ子を取り巻くものに似た独自の“世界”を抱えていたのかもしれない。それは一体どんな景色だったろうか……あれから30年近い年月が経過し、コドモ感覚を殆ど喪失してしまった今だからこそ、大いに想像力を掻き立てられるところだ。
【映画『こちらあみ子』は7月8日(金)より、
新宿武蔵野館、ユーロスペース他にて全国順次公開】
※新型コロナウイルス(COVID-19)感染症流行の影響により、公開日・上映スケジュールが変更となる場合がございます。上映の詳細につきましては、各劇場のホームページ等にてご確認ください。