「人」を描き続ける巨匠の気骨
[2016年 監:マーティン・スコセッシ 出:アンドリュー・ガーフィールド]あらすじ
17世紀。キリシタン弾圧の続く日本で、高名な宣教師フェレイラが捕えられ、棄教したという知らせを受けた弟子のロドリゴとガルペは、マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎へと潜入する。江戸幕府の取締りを逃れた「隠れキリシタン」と合流し、密かに布教活動を続けながらフェレイラの行方を追うロドリゴたち。だが幕府による追及は苛烈をきわめ、遂には仲間の密告によって、ロドリゴ自身も捕縛されてしまう。奉行から棄教を迫られ、信者たちが次々と処刑されていく光景を目の当たりにして、激しく苦悩し、沈黙を通す神に救いを求めるロドリゴ。無力感に苛まれ、「信仰か、眼前の命か」という究極的選択を突きつけられたとき、囚われの身の若き宣教師がついに下した「ある決断」とは……。
レビュー
谷崎潤一郎賞にも輝いた遠藤周作の小説(新潮文庫刊)を原作に、『タクシードライバー』(76年)や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13年)などで知られる巨匠マーティン・スコセッシ監督が映像化した歴史ドラマ。監督が原作と出会ってから28年、度重なる企画先送りや撮影準備段階での事故を乗り越えて完成させた、まさに執念の一作だ。
近世、しかも日本を舞台とした物語であるため、20世紀ヒット・ナンバーの大量使用や卑語の奔流といった「わかり易いスコセッシ印」は完全封印。いつもなら景気よく動きまくるはずのカメラも、今回はかなりモーションが重い。ロケーションや美術セットの色味は極限まで抑えられ、それがまるで鉛のように暗く、陰鬱なムードを生み出している。ギョッとするほどドギツい暴力描写の中にも一種の「ヌケの良さ」があったスコセッシ作品、そう、キレたジョー・ペシがチャカを振り回すマフィア・ムービーなんかとは全く異なる映画だ。とにかく全編を異様な圧迫感が支配している本作、異国(この場合は日本)で厳しい試練にさらされる主人公と伴走するうち、観ているこちらまで息が詰まりそうになる。
『沈黙-サイレンス-』に登場するキリスト教信者たちは、個々の信仰心や精神力の違いから様々な道を歩む。拷問に耐えかねて信仰を棄てる者、怯懦な性格ゆえに仲間を裏切る者、救いの手を差し伸べてくれない神に不信感を抱く者……誰もかれもが人間的であり、下手な宗教モノに登場しがちな超然とした人物は一人もいない。身命を犠牲にして教えに殉じようとする信者たちでさえ、処刑の際には恐怖でガクガクと震え、泣き、痛みに悶え苦しむ。磔になった信者がジワジワと熱湯責めにされ、簀巻にされた人が海に投げ込まれる光景は観ていて楽しいものではないが、観る者が接点を見出せないような有徳の士が微笑みながら殉教するような、ある意味選民思想寄りの宗教映画よりもずっと呑み込み易い描き方であることは確かだ。だいたい、原作がキリスト教に不案内な観客(筆者含む)を蚊帳の外に打っ棄らかすような代物であったとしたら、撮影オファーには事欠かないはずのスコセッシ監督がこれほど映像化に執心することはなかっただろう。宗教弾圧はあくまで時代背景の一部に過ぎず、物語の中心には人間を据えてその葛藤を徹底的に描く……このブレの無さ、「悩める人間としてのイエス・キリスト」を主人公にした『最後の誘惑』(88年)で、カトリックからもプロテスタントからも痛烈にブッ叩かれた経験を持ちながら、それでも本作を撮らずにはいられなかったスコセッシの気骨が表れているようで嬉しい。
そんな「人間観察家」スコセッシの呼びかけに応えて結集した、国際色豊かなキャスト陣もまた見もの。過酷な減量を経て撮影に臨んだアンドリュー・ガーフィールドやアダム・ドライバー、少ない出番でカッチリと存在感を示すリーアム・ニーソンら欧米長身俳優たちが気を吐く中で、窪塚洋介、塚本晋也、浅野忠信といった個性派日本勢が「負けてらんねぇ!」と言わんばかりに丁々発止の演技合戦を披露する(チラリと登場する役者さんの中には、ドン・フライとの壮絶なドツキ合戦で生けるレジェンドとなった高山“アパッチ・タワー”善廣の姿も)。とりわけ異彩を放っているのが、老獪な奉行・井上政重に扮したイッセー尾形。あの、唐突にスーダラ節でも歌い出しそうな朗らかな声の裏に気品と残忍性を混在させ、単なる悪役と割り切れない異色のキャラクターを創造している。第42回ロサンゼルス映画批評家協会賞において、助演男優賞次点に選ばれたのも納得の怪演だ。