※本作はR15+指定作品です
枝葉?寄り道?そこがイイ!
マーベル・コミック史上屈指の人気を誇りながら、その自由奔放過ぎる特質(とりわけ、自分が架空の存在であることについてどこまでも自覚的である点)や、性&暴力方面における過激なテイストが実写映画の主役向きではないと判断され、脇に回っての銀幕デビュー作『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』(09年)では見るも無残な姿に改造されてしまった「饒舌きわまりない傭兵」ことデッドプール。コミック原作映画が次々に発表されていく中でも、“Except you(お前は別な)!”と長らくハブられ続けてきた赤色仮面だったが、2014年、走行する車の中で敵と戦うデップーのCGテスト映像がインターネット上に流出した瞬間から、状況は一変。「映画用の大幅なキャラ改変なんて、デップーには必要なかったんだ!」……テスト・フッテージに対する反響の大きさで、当たり前のことにヤットコサ気付いた20世紀フォックスが、ついに映画化のゴーサインを出す。アメコミ原作モノの相場からすればかなり控えめな予算で製作されたR指定作品『デッドプール』(16年)は、世界興収7億ドル超えというメガヒットを記録。デップー=ウェイド・ウィルソン役のライアン・レイノルズにとっても、コミック・ヒーローへの「長い片想い」がようやく実を結んだ大金星となった。
そして『2』である。前作でウハウハな結果を出してくれたデッドプールに、映画会社が再び活躍のチャンスを与えたのは自然な流れだと思うのだが、その内容たるや、悪フザケの極致。観客にむかって喋り始める「第四の壁破り」なんぞ最早当たり前、天丼ギャグはしつこく、メタな小ネタは一山いくらの大量捨て売り状態である。デップーが組織する新チーム「Xフォース」の劇中での扱いなど投げやりにも程があるし、「並外れた強運」を特殊能力に持つミュータント、ドミノはガモウひろし先生も真っ青の御都合主義的チート・キャラ。作品のスケールは大きくなったものの、語り口はぎこちなくてどこか調子外れだ。キレのある台詞の応酬や、スムーズなストーリー進行の成否だけで映画の良し悪しが決まるのなら、本作は間違いなく劣等生グループに属する。
ところが、だ。映画作りの過程や批評記事でよく見聞きする言葉に「この○○○が無くても作品は成立する」というものがあるが(「○○○」の部分には、「シーン」とか「カット」といった単語が嵌め込まれる場合が多い)、そうやって贅肉を削ぎ落とされた「滑らかな」作品ばかりがヒットし、熱狂的なファンを獲得できるとは限らない。効率重視型のスクリプト・ドクターなら真っ先に切り捨てるはずの枝葉部分に、もの凄いパワーを秘めている映画だってある。『デッドプール2』はまさにそんな作品で、本筋とまるで無関係なはずの「ムダ」なパートが、映画を観ているうちに段々と愛おしく、チャーミングに思えてくるのだ。もちろん、こんな変則技を1作目から使ったのではリスクが大きすぎる。前作『デッドプール』は、ルール無用・何でもありな悪ノリ不良映画を装いつつ、実際には極めて優等生的な姿勢でアンチヒーロー誕生の道程を丁寧に描き、観客からの支持を勝ち取った。そんな地道な努力と確かな成果があればこそ、『2』ではよりアブノーマルでカッ飛んだ方向へと歩を進めることができる。前作の日本語吹き替え版にあった台詞、「惚れりゃアバタもエクボ」を映画の成り立ちに反映させたかのような、いかにもデップーらしいトリッキーなシリーズ展開だ。
同じマーベル・コミックス出身の人気ヒーロー、ウルヴァリンが有終の美を飾った『LOGAN/ローガン』(17年)への対抗意識からか、暴力描写は前作に引き続きドギツい。アホほど噴出する血や内臓、そして照れ隠しのように挟み込まれる脱力ギャグのせいで視界が少々遮られてはいるものの、本作の核となっているのは、今どき珍しいくらいにストレートな「自己犠牲と家族再生の物語」である。一度は壊れてしまったもの、これから破壊される運命にあるものを救うため、特殊能力を放り捨てて跳躍するデップーの姿はなんとも健気で美しい。ノーマン・ロックウェルの有名な油絵“Freedom from Want”をパロった宣伝アートは、単なるおフザケではなかったのだ……とか何とか思ってると、そこは根っから天邪鬼にできてるデップー、最後の最後に痛烈な握りっ屁が待っていた。エンド・クレジットが流れ始め、ほんの一瞬油断した我々の目に飛び込んでくるのは、ある意味インフィニティ・ストーンよりも厄介なオモチャを手に、自分にとって都合の悪い出来事を文字通り「抹殺」していく無責任ヒーローの姿……ほんとにもう、自由過ぎるよ、アンタって人は!!