(2016年 監:西川美和 出:本木雅弘、竹原ピストル、藤田健心、白鳥玉季、深津絵里)
人を活かす
あらすじ
「津村啓」のペンネームで活動するタレント作家・衣笠幸夫のもとに、妻の夏子が旅行先で客死したとの知らせが入る。だが、その時浮気相手と密会していた幸夫は、妻の死を心の底から悲しむことができずにいた。ある日、夏子の親友で同じく事故死した女性の夫・陽一に出会った幸夫は、トラック運転手という仕事柄、家を空けることも多い陽一に「子育ての手伝いをしたい」と申し出る。小学6年生の長男・真平と、保育園に通う長女・灯との擬似的な家族生活を送るうち、それまで子どもを持たずに生きてきた幸夫の心は「人を愛することの喜び」で次第に満たされていくのだが……。
映画冒頭の、ハサミがシャキシャキと小気味よい音をたてる散髪シーン。奥さんが旦那さんの髪を切っている微笑ましい風景のはずなのに、場の空気は気だるく、不穏である。その原因は、仏頂面の幸夫が口を開いた途端にすぐ分かる。とにかく自意識過剰で不満タラタラ、自己憐憫におぼれきっているケッタクソ悪い野郎なのだ。おまけに年下の愛人までいるらしい。深津絵里をほったらかしにして、別の小娘にうつつを抜かすとは……開幕からわずか数分で、幸夫の評価額は早くも底値をつく。
妻を不慮の事故で亡くした後も、幸夫のナルシシズムは薄まる気配がない。上辺では「愛妻を失って悲嘆に暮れる夫」を演じ切っているものの、全てが薄っぺらで空虚。フォトセッションか何かで「ハイ、笑顔くださーい」と言われて硬直したニコニコ顔を見せる芸能人みたいなものである。そんな男が、同じ事故被害者遺族に対して突然「あなたの力になりたいんだ!」などと言いだしたところで、観客は「こやつ、何かウラがあるのでは?」との疑念を拭い去れない。実際、陽一や子どもたちとの心温まる交流の中でも、それまで鳴りを潜めていた幸夫のエゴイスティックな部分が剥き出しになる瞬間は多々あり、観ているこちらはその度ごとに、せっかく積み上げたトランプタワーをブチ壊されたような(あるいは、更生しかけていた前科者の再犯を目撃したような)なんとも惨めな気分を味わう羽目になるのだ。
しかし、「主人公たるもの、最終的には正しい道を進んでくれるはず」という思い込みにギリギリまで揺さぶりをかけてくるこの作風こそ、本作のミソにして西川美和監督の得意技。思い返せば、長編デビュー作の『蛇イチゴ』(02年)からコッチ、彼女の映画に登場する主要キャラクターたちは皆グレーゾーンを彷徨いつつ「正しき選択」を模索し続ける不安定な存在だった。一歩進んで二歩下がり、時には自ら下した愚かしい決断に足をすくわれながら、それでも歩み続けなければならない人間のサガ。それゆえ、精神的停滞を打ち破った主人公が遂に行動を起こす場面は、選択の正否に関係なく強いカタルシスをもたらす。奇を衒うことなきカメラワークと見事に組み立てられたダイアローグもまた、そんな劇中世界のムード構築に一役買っている。
役者たちの演技合戦も、本作の見どころのひとつ。もはや「モックン」なんて愛称が不似合いに思えるほどの俳優になった本木雅弘や、不器用で実直な陽一役が素晴らしくハマっている竹原ピストル、厳しい境遇で必死に気を張って生きる真平に扮した藤田健心のいじらしさも、「無垢」という言葉が子供服を着て歩いているような灯役・白鳥玉季の異常レベルな可愛らしさも魅力的である。物語序盤で退場してしまう夏子役の深津絵里でさえ、限られた出演時間の中で強烈な印象を残している(夫の亡霊に付き添って思い出の地を行脚した『岸辺の旅』(15年)とは、言うなれば正反対の役だ)。人気原作の後ろ盾がなければ企画は通りにくいとされている映画界において、オリジナルのストーリーで勝負をかけ続ける西川監督、やはりどこまでも「人を活かす」映像作家である。