(2016年 監:タナダユキ 出:上野樹里、リリー・フランキー、藤竜也、長谷川朝晴)
みんなが通る道
あらすじ
34歳の書店員・彩は、20歳年上の恋人・伊藤さんと同棲中。ある日、2人が暮らすアパートに、彩の兄夫婦の家を出たお父さんが押し掛けてくる。小言も謎の行動も多いお父さんとの同居生活にストレスを募らせる彩だったが、マイペースな伊藤さんはお父さんと妙にウマが合い、いつの間にやら友達同士のような間柄に。和気藹々とした雰囲気のオトコ2人を見守るうち、「家族の繋がり」というものを徐々に意識し始める彩。しかし、とある出来事がきっかけで兄夫婦に会った彩と伊藤さんが帰宅してみると、お父さんは書き置きを残して家からいなくなっていた……。
人間、いつかは必ず死ぬ。どんな大金持ちでも貧乏人でも、その点に関しては一つの例外もない。「この世に生を受けた瞬間から後は、死を迎えるための準備期間」という物言いも、聞こえは少々乱暴だが核心を衝いている。では、その準備期間を如何にして過ごすのか?中澤日菜子の同名小説(講談社文庫)を原作にした映画『お父さんと伊藤さん』は、キッチリ20歳ずつ年の離れた3人を依り代に、この難題と向き合うためのヒントを観客に投げ掛けてくる「厳しく優しい」作品である。
数年前までなら友達と夢を語り合う機会もあったかもしれない彩だが、サエない年上男性と一つ屋根の下で暮らしている現在の彼女は、乙女チックな幻想に惑わされることもない「堅実」なリアリスト。波乱のタネになりそうな物事は早々に切り捨てるか、あるいはハナから近づかない。「人生における断捨離を淡々と進めている女性」、そんな醒めた表現がしっくり来るようなキャラだ(付け加えておくと、『スウィングガールズ』(04年)公開がつい此間の出来事であると感じている筆者の目には、「料理の合間に金麦をグイ飲みする上野樹里」という画ヅラがけっこう衝撃的な光景として映った)。
そんな彩にとって、平穏な日常に突然転がり込んできた小煩いお父さんとの同居は、いささかハードルが高すぎる。結婚観や仕事のこと、果ては揚げ物に使うソースの種類にまでケチをつけてくるパパンのことが、内心ウザったくて仕方ない。一方のお父さんサイドはといえば、生来の頑固な性格が親子間のコミュニケーションを阻害してしまう。デリケートな問題の渦中に身を置く者同士、なかなか己の姿を客観視できないのがもどかしい。
規格違いの歯車をギクシャクと噛み合わせ続ける父と娘の間で、文字通り潤滑油としての役割を果たすのが、人生経験豊富な「小学校の給食のおじさん」こと伊藤さん。ノンビリ屋の事なかれ主義者かと思いきや、時には鋭い洞察力を発揮し、またある時は相手の意気を阻喪させるキツい言葉をワザとぶつけて、迷走しかけた親子仲を其とはなしに軌道修正してくれる。近年、俳優として目覚ましい活躍を続けているリリー・フランキーの、善悪中庸オールマイティな個性が最高に活きるキャスティングだ。この配役をちょっと誤れば映画そのものが豪快に転覆していた可能性もあるわけで、タナダユキ監督の采配大成功、といったところか。
藤竜也が家庭に自分の居場所を見つけられない老人を演じているという点は、北野武監督のコメディ映画『龍三と七人の子分たち』(15年)とも共通しているが、こちらは派手なカチコミ場面もカーチェイスも無し。そのため、包丁で柿の実の皮を剥く彩が手もとからチョイチョイ目を離したり(危ない!)、お父さんと鉢合わせした某氏が拒否反応で嘔吐する(シーンが切り替わると、食卓を囲んだ彩たちがオクラ納豆か何かを掻き混ぜている、という“Yuck!”なオマケ付き)といった、賑わしい映画ならスルーしてしまうような箇所が妙に印象に残る。故に物語終盤、微かな状況変化も見逃すまいとスクリーンを注視していた観客に浴びせる「雷の大音響」とその後のテンテコ舞いはインパクト十分だ。
誰もがいつかは直面する問題を、重すぎないタッチと細やかな生活描写でふんわり映像化した『お父さんと伊藤さん』。本作がお気に召した方には、同じく人生の通過儀礼を描いたキーラン&ミシェル・マローニー監督の小品『ペーパーマン』(09年)もオススメしておきたい。